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太宰府探訪 九州の古代史探索
 九州の古代史探索シリーズ        -座学と現地視察をつなぐ


古代遺跡や神社の探索ツアー12回目は「太宰府」界隈。このエリアの古代遺跡を事前に調べてみて驚いた。古墳時代以前のものが見当たらず、政庁以降(7世紀後半‐通説)の史跡しかないのである。弥生時代から倭国の中心であった北部九州に空白のエリアがある。その謎解明がテーマの、意義深く楽しみな探訪となった。


太宰府探訪                       辻 浩史(2013.4.25記)


4月21日(日)9:30、JR大野城駅西口広場に参加者5名が集合。

今回も晴天ではあったが、冬に逆戻りしたような肌寒さの中スタート。

まずJR水城駅近くの「水城跡」へ。土塁を覆う樹木は、

前日の雨でより一層若芽が輝いている。堤に登り散策して見る。


内側の土手には花が咲き乱れ、戦の為に造られた施設とは思われない長閑さである。


道路際の案内板の解説は、日本書紀のほぼ書き写し。

「663年白村江の戦いで敗れた我が国は、

敵の大宰府侵入を防ぐために大急ぎでこの大堤を築いた」

と。ここには、大宰府政庁が設置された時期や、


その敗戦後郭務綜など唐・新羅の将軍が何回も進駐してきた事件など記されていない。


663年にはまだ大宰府政庁はなく、

この大事業がわずか1年で築かれたことになる。


しかも、平成14年に九州歴資料館が、

御笠川の東側で地盤を固めるための土台の木(敷きソダ)のC14を測定した結果は、

もっと古い5世紀~3世紀と出たが、

資料館側はなぜか水城とは関係ないとの公式見解を発表した。

(内倉武久氏:古田史学会報より)

もっと古い時代に水城は造られていたのである。


現在の水城は、7世紀末大宰府政庁が設置され、

その際「古水城」を補強したものではないか?

同時に、四王寺山に大野城を築いて防備を整備し、

防人達に守らせたと思われる。すると「古水城」は、

どんな規模で何のために築かれたのか。


3世紀以降中国は、五胡十六国~南北朝の時代。

朝鮮は三国時代といずれも騒乱の時代を経て、

やっと6世紀末から7世紀末にそれぞれ隋と新羅によって

統一されて行く。唯一日本だけがすでに4世紀大和朝廷が統一し、

北部九州もその勢力下にあったという定説(?)には

到底うなずくことはできない。


東アジア全域が緊迫し、倭国も乱れていた時代である。

この地域の地域王国(倭)も強大になり統合され、

北の守りを必要としたのではないか。


北部九州の神籠石が、太宰府を囲むように配置されているのも

偶然ではない。「古水城」と連携した砦と考えると倭国が見えてくる。

その水城は今、国道・高速道・鉄道などでずたずたにされ痛々しい。

 
国道3号線を横切り「筑紫国分寺跡」へ。

南斜面の高台から遠く筑後平野が一望できる。

8世紀初め、聖武天皇により全国に建てられた国分寺の中でも、

西海道統括の寺として、7重の塔を囲んだ大伽藍であったという。

 
隣の高野山真言宗の「国分密寺」を訪ねてみる。

綺麗に手入れされた庭には、いろんな花が咲き乱れまさに春爛漫。

ふと内から顔を出した住職が見学を許してくれ、

重要文化財指定の本尊「薬師如来」はじめ由緒深そうな御仏を拝観できた。


天皇により開かれた寺ゆへか、

神道の鏡を抱いている仏像に密教の奥深さを思う。


微笑まれているような仏像と、住職の人柄に心和むひと時となった。


案内資料によると、北の山麓に太宰府市ではめずらしい

陣ノ尾古墳(6世紀後半横穴式石室)の案内が出ていた。

(大宰府市の古墳は、ほかには成屋形古墳があるのみ)
      



水城


国分寺七重塔の礎石


薬師如来



国分蜜寺


住宅街を抜けて、北側から政庁跡に入る。

まずは資料館へ。全てが8世紀以降の資料でやはり、弥生~古墳時代の展示物はない。


当時の役人の食事や衣装と発掘された木簡、政庁・国分寺の模型など、

律令体制化の大宰府に絞った展示である。


外に出て、周りの景色を眺めながら遺構を一回りして見る。

江戸・明治・昭和と続く「都府楼」の石碑が、なじみの配置で立っている。

のどかな風景ではあるが、北に四王寺山を抱く丘陵地は、

南に御笠川、北西の鬼門の方角には宝満山と、まさに神仙思想の聖地である。


発掘調査により整備された礎石は、8世紀の初期の政庁遺構である。

この下に埋まる遺跡は7世紀後半になると、

それまで20年程度しか持たなかった掘立柱式に替わり、

礎石と瓦の恒久的な建築が登場したことで、

その後の行宮は、天皇一代ごとに遷宮されることがなくなった時代に入る。


しかし近年、その掘立柱の大型建築が弥生時代の遺跡からも数多く発掘され、

倉庫だけでなく祭殿などに使われた可能性が出てきた。

この丘陵地(聖地)に弥生の民が住んでいなかったとは思えない。

政庁と条坊制の町づくりで壊されたのか、まだ礎石の下に眠っているのか。

石碑から眺めた風景に、その思いをさらに強くした。


朱雀通を南に下り、通古賀の王城(タマシロ)神社へ。

祭神は武甕槌命と事代主命。もとは大城山塊のひとつ王城山にあったが、

大野城を築くときに現在地に移されたとの言い伝え。


通古賀は国衙のあった場所と推定されている。

すぐにまた北に向かい、政庁東の観世音寺に寄ってみる。

お茶会が開かれ、駐車場は満杯。


野点や濃茶席を楽しむ着物姿の風情に、

やはり太宰府の文化と歴史の重層さを感じる。

宝物殿は前回見ていたため、国宝の梵鐘と戒壇院を覗いてから、

ショッピングセンターで昼食。
       



大宰府政庁



都府楼石碑


王城神社


観世音寺


続いて、筑紫女学園大学正門右手の石穴神社へ。

奥の院の磐座を神体とする古い神社である。

稲荷神社として狐が出迎えてくれる。

「宇迦乃御魂神」を祭神としている。


神殿裏の奥の磐座は、森も深く荘厳な雰囲気に覆われている。

山の名は高雄山。古い形式であり、興味の尽きない神社であった。

しかし誰も訪れる人はいない。


大通りに出て、お祭りで賑わう太宰府天満宮を右手に見ながら、

宝満山麓の竈神社へ。縁結びの神社とされて駐車場は満車。

カエデの若葉に覆われた階段を登ると、大きな催事場が出来ている。


最近の繁盛のせいか、桧造りの銅板葺き。

若いカップルの参拝客が多く、石穴神社と比べ有名神社の賑わいには驚く。

祭神は、鵜茅不葺合(ウガヤフキアエズ)尊の皇后玉依姫。

修験の山であった宝満山頂に上宮が鎮座。


帰りは、四王寺山越えルートを取り、

四王寺山一の人気スポット焼米ケ原へ。


筑後平野を一望すると、島津軍を迎えるために基山と宮地岳、

そしてこの山の重要さが分かる。戦国時代までもその重要性は変わっていない。


途中にある百間石垣に登ってみる。

急な斜面に切立って造られている。

道路によって水門は破壊されたのか小さな渓流が横を流れている。


この山城は、日本書紀に記されているが、

記されていない前回訪ねた「御所ケ谷神籠石」とは

その石組が余りにも違う。


同じ目的で同じ民族が造った山城とは思えない。


もっと時代を高所から俯瞰して、

水城と神籠石の謎融きを行う必要を感じた探訪となりました。
        

石穴神社



磐座



竈神社



百間石垣

次回6月は、那珂川町の予定です。


| 九州古代史探索 | 14:12 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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