2013.08.03 Saturday
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二十一世紀をむかえてひとりひとりが素敵な生き方をしたい。
そのささやかな足がかりとして「本が身近にあるくらしを」と願い発行を思いたちました。 すぐれた本は私たちを楽しませ生きる力を与えます。 「心のガーデニング」は、「読書の愉しみ」にまつわるメッセージを 皆様にお届けする福岡発信ブックガイドです。 |
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2013.05.28 Tuesday
太宰府探訪 九州の古代史探索
九州の古代史探索シリーズ -座学と現地視察をつなぐ
古代遺跡や神社の探索ツアー12回目は「太宰府」界隈。このエリアの古代遺跡を事前に調べてみて驚いた。古墳時代以前のものが見当たらず、政庁以降(7世紀後半‐通説)の史跡しかないのである。弥生時代から倭国の中心であった北部九州に空白のエリアがある。その謎解明がテーマの、意義深く楽しみな探訪となった。 太宰府探訪 辻 浩史(2013.4.25記) 4月21日(日)9:30、JR大野城駅西口広場に参加者5名が集合。 今回も晴天ではあったが、冬に逆戻りしたような肌寒さの中スタート。 まずJR水城駅近くの「水城跡」へ。土塁を覆う樹木は、 前日の雨でより一層若芽が輝いている。堤に登り散策して見る。 内側の土手には花が咲き乱れ、戦の為に造られた施設とは思われない長閑さである。 道路際の案内板の解説は、日本書紀のほぼ書き写し。 「663年白村江の戦いで敗れた我が国は、 敵の大宰府侵入を防ぐために大急ぎでこの大堤を築いた」 と。ここには、大宰府政庁が設置された時期や、 その敗戦後郭務綜など唐・新羅の将軍が何回も進駐してきた事件など記されていない。 663年にはまだ大宰府政庁はなく、 この大事業がわずか1年で築かれたことになる。 しかも、平成14年に九州歴資料館が、 御笠川の東側で地盤を固めるための土台の木(敷きソダ)のC14を測定した結果は、 もっと古い5世紀~3世紀と出たが、 資料館側はなぜか水城とは関係ないとの公式見解を発表した。 (内倉武久氏:古田史学会報より) もっと古い時代に水城は造られていたのである。 現在の水城は、7世紀末大宰府政庁が設置され、 その際「古水城」を補強したものではないか? 同時に、四王寺山に大野城を築いて防備を整備し、 防人達に守らせたと思われる。すると「古水城」は、 どんな規模で何のために築かれたのか。 3世紀以降中国は、五胡十六国~南北朝の時代。 朝鮮は三国時代といずれも騒乱の時代を経て、 やっと6世紀末から7世紀末にそれぞれ隋と新羅によって 統一されて行く。唯一日本だけがすでに4世紀大和朝廷が統一し、 北部九州もその勢力下にあったという定説(?)には 到底うなずくことはできない。 東アジア全域が緊迫し、倭国も乱れていた時代である。 この地域の地域王国(倭)も強大になり統合され、 北の守りを必要としたのではないか。 北部九州の神籠石が、太宰府を囲むように配置されているのも 偶然ではない。「古水城」と連携した砦と考えると倭国が見えてくる。 その水城は今、国道・高速道・鉄道などでずたずたにされ痛々しい。 国道3号線を横切り「筑紫国分寺跡」へ。 南斜面の高台から遠く筑後平野が一望できる。 8世紀初め、聖武天皇により全国に建てられた国分寺の中でも、 西海道統括の寺として、7重の塔を囲んだ大伽藍であったという。 隣の高野山真言宗の「国分密寺」を訪ねてみる。 綺麗に手入れされた庭には、いろんな花が咲き乱れまさに春爛漫。 ふと内から顔を出した住職が見学を許してくれ、 重要文化財指定の本尊「薬師如来」はじめ由緒深そうな御仏を拝観できた。 天皇により開かれた寺ゆへか、 神道の鏡を抱いている仏像に密教の奥深さを思う。 微笑まれているような仏像と、住職の人柄に心和むひと時となった。 案内資料によると、北の山麓に太宰府市ではめずらしい 陣ノ尾古墳(6世紀後半横穴式石室)の案内が出ていた。 (大宰府市の古墳は、ほかには成屋形古墳があるのみ) ![]() 水城 ![]() 国分寺七重塔の礎石 ![]() 薬師如来 ![]() 国分蜜寺 住宅街を抜けて、北側から政庁跡に入る。 まずは資料館へ。全てが8世紀以降の資料でやはり、弥生~古墳時代の展示物はない。 当時の役人の食事や衣装と発掘された木簡、政庁・国分寺の模型など、 律令体制化の大宰府に絞った展示である。 外に出て、周りの景色を眺めながら遺構を一回りして見る。 江戸・明治・昭和と続く「都府楼」の石碑が、なじみの配置で立っている。 のどかな風景ではあるが、北に四王寺山を抱く丘陵地は、 南に御笠川、北西の鬼門の方角には宝満山と、まさに神仙思想の聖地である。 発掘調査により整備された礎石は、8世紀の初期の政庁遺構である。 この下に埋まる遺跡は7世紀後半になると、 それまで20年程度しか持たなかった掘立柱式に替わり、 礎石と瓦の恒久的な建築が登場したことで、 その後の行宮は、天皇一代ごとに遷宮されることがなくなった時代に入る。 しかし近年、その掘立柱の大型建築が弥生時代の遺跡からも数多く発掘され、 倉庫だけでなく祭殿などに使われた可能性が出てきた。 この丘陵地(聖地)に弥生の民が住んでいなかったとは思えない。 政庁と条坊制の町づくりで壊されたのか、まだ礎石の下に眠っているのか。 石碑から眺めた風景に、その思いをさらに強くした。 朱雀通を南に下り、通古賀の王城(タマシロ)神社へ。 祭神は武甕槌命と事代主命。もとは大城山塊のひとつ王城山にあったが、 大野城を築くときに現在地に移されたとの言い伝え。 通古賀は国衙のあった場所と推定されている。 すぐにまた北に向かい、政庁東の観世音寺に寄ってみる。 お茶会が開かれ、駐車場は満杯。 野点や濃茶席を楽しむ着物姿の風情に、 やはり太宰府の文化と歴史の重層さを感じる。 宝物殿は前回見ていたため、国宝の梵鐘と戒壇院を覗いてから、 ショッピングセンターで昼食。 ![]() 大宰府政庁 ![]() 都府楼石碑 ![]() 王城神社 ![]() 観世音寺 続いて、筑紫女学園大学正門右手の石穴神社へ。 奥の院の磐座を神体とする古い神社である。 稲荷神社として狐が出迎えてくれる。 「宇迦乃御魂神」を祭神としている。 神殿裏の奥の磐座は、森も深く荘厳な雰囲気に覆われている。 山の名は高雄山。古い形式であり、興味の尽きない神社であった。 しかし誰も訪れる人はいない。 大通りに出て、お祭りで賑わう太宰府天満宮を右手に見ながら、 宝満山麓の竈神社へ。縁結びの神社とされて駐車場は満車。 カエデの若葉に覆われた階段を登ると、大きな催事場が出来ている。 最近の繁盛のせいか、桧造りの銅板葺き。 若いカップルの参拝客が多く、石穴神社と比べ有名神社の賑わいには驚く。 祭神は、鵜茅不葺合(ウガヤフキアエズ)尊の皇后玉依姫。 修験の山であった宝満山頂に上宮が鎮座。 帰りは、四王寺山越えルートを取り、 四王寺山一の人気スポット焼米ケ原へ。 筑後平野を一望すると、島津軍を迎えるために基山と宮地岳、 そしてこの山の重要さが分かる。戦国時代までもその重要性は変わっていない。 途中にある百間石垣に登ってみる。 急な斜面に切立って造られている。 道路によって水門は破壊されたのか小さな渓流が横を流れている。 この山城は、日本書紀に記されているが、 記されていない前回訪ねた「御所ケ谷神籠石」とは その石組が余りにも違う。 同じ目的で同じ民族が造った山城とは思えない。 もっと時代を高所から俯瞰して、 水城と神籠石の謎融きを行う必要を感じた探訪となりました。 ![]() 石穴神社 ![]() 磐座 ![]() 竈神社 ![]() 百間石垣 次回6月は、那珂川町の予定です。 コメント
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