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豊前探訪 九州の古代史探索ツアーレポート
 九州の古代史探索シリーズ        -座学と現地視察をつなぐ


古代遺跡や神社の探索ツアー11回目は、「豊前」京築エリア。

筑豊との繋がりが深く、物部・大伴活躍の舞台であり、

新羅から渡来したともいわれる八幡神の発祥の地である。


7世紀なると隋書俀國伝に記された

「竹斯国の東にあった華夏人の秦王国からさらに10余国を経て

海岸に達する」エリアでもある。


そんな謎解きの探訪は、やや肌寒い曇り空の下、

梅もほころんでいて訪問各所の人々は、温かく迎えてくれた。




豊前(京築)探訪                     辻 浩史(2013.2.22記)


2月17日(日)9:00、博多駅筑紫口に参加者6名が集合。

福岡都市高速から九州自動車道に乗って小倉南インターで降り、

昨年8月に訪ねた一ノ岳麓の古宮八幡、鏡神社を眺めながら

「道の駅香春」に到着。


ここで昼の弁当を調達して出発。

新仲哀トンネルを抜け京都(みやこ)に入る。最初の探訪地は、

御所ケ谷神籠石。記紀に記載のされていない方形の切り石積の山城で、

高良山の山城が「神籠石」と呼ばれていたことから

「コウゴウイシ」と名付けられた。

その目的については、おつぼ山の調査で「山城」に決着し、

水城、基山、大野城と同じ7世紀中の築造とされている。


しかしその景観と石積の技術は余りにも違う。

百済と高句麗・新羅系の韓半島の勢力争いの影を感じる。

特に御所ケ谷の水門の規模に至っては、御所という名前からして、

独立した王国の勢力圏を想像させる。


また石の加工は、中南米のマヤ・インカ帝国の石積にも通じる

緻密さと迫力を持っている。誰が何のために。

まだ解明されていないが北部九州でこれまで見つかっている8ヶ所の神籠石は、

倭国の都督府であった太宰府を囲む配置になっているのは偶然とは思えない。


この城の位置からすると、瀬戸内からの上陸に対する砦として、

7世紀以前に築かれた九州王朝の山城ではないのか。


この丘に立ち遠くに蓑島を望み、古代海岸線が入り込んでいた姿を想像すると、

その感をさらに強くした。奥の院は次回の山登りの楽しみにして、

山を降り豊前国分寺へ。しばらく走ると丘陵地に塔の宝輪が見えた。


8世紀の創建当時は七重の塔だったというが、

明治時代に復元された今の三重塔でもその存在感は十分だ。


周囲の梅林園は、すでに3分咲きで梅見の客が訪れていた。

昼食は予定の戸外が肌寒くなったため、

豊津町の歴史資料館の好意により室内で取ることができた。感謝。

資料館は、国分寺と同じ瓦葺きで展示も内容のある施設であるのに、

訪れている人はやはり少なかった。

 
     
 御所ケ谷神籠石

 

 (精密な加工技術)



国分寺



歴史資料館


ここから北に向かい政庁跡を訪ねる。

太宰府政庁と同様の大規模遺構であり、

大和朝廷における豊前国の重要性が示されている。


この地は、古代から独立した地域王国として、

常に「豊国」の中心地であり、太宰府への勅使道の玄関口として

栄えていたのだろう。


その伝承は、次に訪ねた「豊日別(草場)神社」の社伝に記されている。

ここに豊日別命を祀ったのは、大伴神牟禰奈里(オオトモカムムネナリ)。

 
悲恋秘話の松浦佐用姫と大伴狭手彦の子であり、

その子孫は今もこの地方十数社の神主「神(コウ)氏」

として続いている。


この地を本拠地とした「大伴」は、

邇々岐命が降臨した時に隋神した天忍日尊を祖とし、

その13世の孫、大伴金村がこの地に「継体」を迎えたのではないか。


物部麁鹿火とともに「磐井の乱」を鎮圧した武将でもある。

日本書紀によると6世紀、継体が即位したのは河内の

「樟葉(クスハ)宮」というが、この「草場(クサバ)」の可能性を感じる。


大伴は、その後大宰府に赴任した万葉歌人

「大伴家持」まで常に九州との繋がりが切れない。


また饒速日命に始まる「物部」は、遠賀から鞍手を本貫としている。

ここ竹斯(筑紫)の東の「秦王国」は、

大伴・物部と半島からの渡来系氏族(アメヒボコ・息長・秦・辛嶋)とが

複雑に絡み合っている。


華夏人の足跡は見えないが、どちらかの氏族と「秦」は

繋がっていると思われる。また乱の直前に、

継体は物部麁鹿火に統帥のレガリアである「マサカリ」を与えるから、

「長門より東は朕が、筑紫より西は汝之を制せよ」と謎の詔勅を行っている。


するとこの乱は、豊を中心にした北部九州での勢力争いであった

可能性がある。大伴の系図にはその繋がりは見えないが、

鎌倉時代以降の豊後の守護大名が「大友」というのも因縁めいている。
       


 

豊前政庁跡



豊日別神社         




須佐・高祖神社


続いて、須佐神社。素盞能尊を祀る「須佐神社」と

天御中主・高御産霊・神御産霊を祀る「高祖神社」が並列された

珍しい形の神社である。


北に蓑島、前に祓川河口の古代の港見下ろす丘に建っている。

地域の氏神と北部九州における祇園信仰の中心である。

しかし、この2社が並存する由来は、社伝では定かでない。


今日の最後の探訪は、北部九州屈指の規模を誇る、御所山古墳。

九州では希少な「環濠付」前方後円墳であり、

大和朝廷の県主の墓と謂われる。


葺き石に覆われていたと想像される丸石が覗いている。

墳丘には、大巳貴を祀る「白庭神社」が鎮座していた。

この古墳は、5世紀後半の築造であり、継体が即位(507)する

わずか前の時代の史跡である。


豊前の県主クラスの人物が埋葬されているというが、

豊前王国末期の時代にあたり、歴史の見直しを「大巳貴」が

訴えているように見えた。

これまでと比べると狭い範囲であったが、

内容の濃い探訪となり再訪の必要があると思った。
 



御所山古墳






白庭神社
| 九州古代史探索 | 13:07 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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